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春の歌

お口直しの記事です。柄にもないことはするものではありません。今日から平常営業いつものノーテンキブログ」に戻ります。改めて、よろしくお願いいたします。で、気軽にコメントお寄せください。
「春」を歌う唱歌は他の季節に比べると格段に多いような気がします。日本人にもっとも好かれている季節だからでしょうか。春は各政党もうらやむ、ダントツの「季節支持率」ナンバーワンです。今日のテーマは「春を歌う唱歌を探る」です。
思いつくままに「春」の歌を挙げると

「春よ来い」「春が来た」「春の小川」「どじょっこふなっこ」「早春賦」「朧月夜 」「さくらさくら」「蝶々」エトセトラ。まだまだいろいろあります。この中から今日は「春が来た」と「春よ来い」に考察を加えてみます。「春が来た」の作詞者、高野辰之は長野県中野市の出身で、このほかにも岡野貞一とのコンビで「故郷」「朧月夜」「もみじ」「春の小川」などたくさんの童謡を作っています。中野市は長野県でも決して雪の多いところではないようです。そのせいでしょうか、私は「春が来た」の詞に違和感を覚えます。

 

「春が来た」

春が来た 春が来た どこに来た
山に来た 里に来た 野にも来た

花がさく 花がさく どこにさく
山にさく 里にさく 野にもさく

鳥がなく 鳥がなく どこでなく
山でなく 里でなく 野でもなく

この詞で度々登場する「山」「里」「野」の区分が、私の住む地のように、それぞれが渾然一体となった地では判然としません。
一般的な概念で言うと、『「山」はたくさんの木が生い茂っていて標高の高いところ。』になるだろうし、『「里」は主に人間が住居を構えて生活しているいる平地。』でしょうか。「野」の定義付けが一番難しい。『人の手に掛かるところは田んぼや畑、そうでないところは草原になっている「山」と「里」の境界線に位置する比較的平たい場所。』でどうでしょうか。
高野さんの詞に「山に来た 里に来た 野にも来た」の件(くだり)がありますが、普通に考えれば、「言葉の順番が時系列」のはずですから、この詞をそのまま理解すれば、春は「山」→「里」→「野」の順番にやってくることになります。「山」と「里」はほぼ同時にやってきたけれど、「野」は,「野にも来た」とあらわされ、「(一番最後になったけど「野」にも春はやってきたんだよ」と強調されています。
標高の高さは低い方から順に「里」「野」「山」の順番です。従って春は「里」→「野」→「山」の順番で「やってくる」と考えるのが普通です。ところが、高野の詞では、「山」「里」「野」の順番で春が来ると言い張っています。一体どういうことでしょうか。私がとんでもない勘違いをしているのでしょうか。私の考え方のどこに誤りがあるのでしょうか。教えてください。

「春よ来い」の作詞者は相馬御風で、今は廃校になったわが母校、有間川小学校の校歌の作詞者として有名で、御風はこのほかにも片手間で早稲田大学や日本大学の校歌の作詞もしています。御風の出身地は上越市の隣町、糸魚川市です。
「春よ来い」
春よ来い 早く来い 歩き始めたみいちゃんが 紅い鼻緒のじょじょはいて おんもへ出たいと待っている


みいちゃんは御風の長女「文子(ふみこ)」がモデルとされています。
この歌の中ではみいちゃんが春を待ち焦がれている様子がイキイキと描かれています。人にはそれぞれの「春基準」がありますが、さて、みいちゃんにとっての春はどんな状態を指すのでしょうか?

みいちゃんは御風の長女「文子(ふみこ)」がモデルとされています。
この歌の中ではみいちゃんが春を待ち焦がれている様子がイキイキと描かれています。人にはそれぞれの「春基準」がありますが、さて、みいちゃんにとっての春はどんな状態を指すのでしょうか?


私が「冬終結宣言」と「春宣言」を区別するのは、家の周りや庭(つまり「里」です)の雪が溶けて無くなることを「冬終結」沁み込んだ雪解け水が蒸発して地が乾いた状態を「春」としているからです。子供の頃も今も我が家の前には国道8号線が走っています。この国道、昔は砂利道で穴ぼこだらけでした。雨が降ると穴ぼこには水がたまり、下駄や草履、ズック靴では歩けません。足が濡れるからです。雪が消えても道路の穴ぼこが乾くまでには時間を要します。穴ぼこの水が消えるまで春はやってきません。さすがに、今は8号線も舗装してあるので、冬が終わればすぐに春が来ます。みいちゃんの子供のころは雪が解けて春になるまでには時間がかかりました。みいちゃんは毎日、今か今かと穴ぼこの水貯まりの乾き具合を見ています。御風パパから買ってもらった紅い鼻緒のじょじょをはいて、早く外へ出たいと待ち焦がれているのです。 
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No title

「春の小川」は明治神宮を水源とする渋谷川がモデルだそうですが、今は東急線沿いの代官山辺りに開渠が見られるのみで、もちろん歌の面影はどこを探しても見つかりません。
時代の流れとはいえ寂しいものです。

「春が来た」の山、里、野は、単なる語呂合わせかも知れませんが、敢えて理由をつけるなら、タラの芽などの山菜は村の人たちが一番早く味わえる春の幸だったので、まだ雪深い山に入ってまで採りに行く必要があったのではないかと。
里は、おっしゃるとおり雪が解けても道がぬかるんでいるうちは、春とはいえない状態なのでしょう。
野とは、田畑の事で、本格的な春がやって来ないとそこで農作業は出来ませんから、一番後回しになったのではないでしょうか。
つまり、自然の恵みが芽吹き、足元も乾いた。さあ野良仕事に出かけよう。と、そういう意味の歌ではないかと。

No title

中野の高野の故郷に行ったことがあります。
里山があって、その裾野に集落があって、その前に田畑が広がっているのです。
ここでいう「野」とは田畑や空き地を含めた広がりじゃないでしょうか。
毎日里山を仰いで空の色、木々の様子、ふいてくる風の温かさに春を感じ、そういえば庭の梅も咲いて、、ああ、気がつけば田んぼも緑が増してきたなあ。
泥鰌を捕りにいってみようか、、、。
私の育った家からもそう遠くはないところです。

>単なる語呂合わせかも知れませんが

かもしれませんね。みつきさん、私は「景色」だけで春をとらえていました。そうです。人の営みにも季節があるのですよね。
だから、住んでいる環境の違いによっては違和感を覚えるのかもしれません。御風の詞に違和感を感じないのは同じような環境に育ったから、ということなのでしょうね。

:> 育った家からもそう遠くはないところです。

> 佐平次さん、みつきさんにも書いたのですが、かつて見たことのある景色はすんなりと心に入ってきます。
> >春を感じ、そういえば庭の梅も咲いて、、ああ、気がつけば田んぼも緑が増してきたなあ。
> 泥鰌を捕りにいってみようか、、、。
> 山地に春がやって来るまでもう少し時間がかかりそうです。
> 当地は海岸沿いの地ですが、山菜シーズンになると、まずは、里山へ長野ナンバーの車が入り込んできます。ひと足早い春を求めてやってくるのです。
> 名前入りで目障りとも考えて↑の記事は削除しました。悪しからずです。
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新潟県上越市に住んでいます。午前中は農夫、午後からは勤め人。ときどき2,5号素焼き鉢のミニ盆栽もどきと戯れることもあり。

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