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五十歩百歩

正月向きの話題を探してみました。今日のお題は「五十歩百歩」です。
「ごじっぽひゃっぽ」ですよ、読み方は。中国の故事に由来している言葉で、「能力、才能、質や量などを比較して、それほどの違いがないこと。」本質的には差がないこと。」という意味ですね。
「五十歩百歩」は非常に認知度の高い故事です。私でも知っているくらいだから。
で、問題は、(問題にしているのはもちろん私です)百歩引く五十歩=五十歩」
その差、五十歩。五十歩の差を多いとみるか少ないとみるかによってこの四字熟語の意味が全く違ってきます。この故事の由来となっているウソっぽい物語は、名前だけなら知っている孟子がまだご存命だった紀元前五世紀、彼の国の戦国時代の頃の話です。敵とチャンバラををしたけど、あまりに敵が強いもんだから、おじけづいた二人の兵士が戦場で怖くなって逃げ出しました。ある者は100歩逃げて踏みとどまり、ある者は50歩で踏みとどまった。」
放送席でこれを見ていた徳光アナが「五十歩で踏みとどまった兵士は勇気があります。それに引き換え、百歩逃げた兵士は意気地なしですね。孟子さん。」の問い掛けを孟子にしたところ、天邪鬼の孟子が「とくさんそりゃ違う。五十歩の差なんてたいしたものではありませぬ。『こわくて逃げた』ってことが問題なんじゃよ」と答えました。以後この言葉は『たいして違いがない」と言う意味に使われるようになりました。しかし、『徳光説」を支持する意見もあります。『五十歩は大きな差、その五十歩こそが大事」説です。
そんなところへ、この問題を考えるのにまことに都合のいい物語がまるで中国のウソっぽい話を補完するような形で、かの国の戦国時代から下ること2、400年(今から十年くらい前)のニッポン国の平成の時代に、越後の高田城下(春日山城下ではありません。念のため))の某飲み屋街で誕生しました。
仕事仲間7, 8人で催した納涼会での出来事です。 酒を飲むと気が大きくなる男(仮に酔い男とします。平常時は気の小さい男です。念のため)が すれ違った酔っぱらい軍団(リーダー格で大男のたこ入道、目つき鋭い背高ノッポ、半袖の腕から見え隠れするクリカラモンの三人組)にからかわれ、よせば良いのに、売り言葉に買い言葉とばかりに「なんだい、タコ」みたいなことをいっちゃった。タコは「なんだ、ボケ!」と即反応。あとは売ったり買ったりの言葉の応酬。さらには怒り心頭の三人組と酔い男はもみあいになり、驚いた仕事仲間軍団はどうしたことか、近くの電信柱の物陰に隠れこむヤツや遠巻きに争いを眺めるヤツ、争いを止めるでもなく間近で戦況を眺めるヤツと様々。しかも全員の顔に『私はこの酔い男の関係者ではありません」の貼り紙。この有様を見ていた通りがかりのオトーさん(50代?) はタコ入道に向かって『もう許してやったら?この人ヘベレケで今何をしているかわかんないみたいだよ。こんな人と争っても得すること無いよ。誰か警察に通報すると厄介な事になっちゃうよ」と三人を諌めたら、三人は簡単にその場を去り、一件落着。

さて、このあと物語はどう展開したでしょうか? 続きは『続きを読む」をクリック。

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私が生まれたのはサンフランシスコ講和条約が締結された年、1951年です。その時、首相は吉田茂でしたが私の幼い記憶に「吉田茂」の名前はありません。直江津市(現上越市)の最西端の全校児童数100名にも満たない海辺の小さい小学校に入学したのは1958年です。小学校は、チャイム(ベルだろうな)の音が聞こえてから玄関を飛び出しても間に合う距離にありました。当時の首相は岸信介でした。岸の名前ははっきりと記憶していますが、もう少し学年が進んでから、ラジオのニュースを聞いて憶えたのでしょう。1年生で、ニュースに熱心に耳を傾けるほど私は早熟な少年ではなかったはずですから。大江健三郎が芥川賞をとったのも、長嶋茂雄がデビュー戦で4打数4三振を喫したのも王貞治が巨人に入団したのも私が小学校に入学した年です。しかしこれも、リアルタイムでの記憶がなく、後になってどこかで知ったようです。相撲は栃若時代でした。奄美出身の胸毛の朝潮太郎が栃若の二人に割って入るようにして時々優勝しています。栃若も朝潮も取り組みをTV観戦したのは近くの床屋でしたが、もう少し学年が進んでからのようにも思います。ご贔屓は若乃花でした。売春防止法はこの年に施行されました。原辰徳、森昌子はこの年に生まれまれています。村田英雄の「無法松の一生」がヒットしたのはこの年ですが、その他には、歌謡曲でめぼしいヒッ曲のない年でした。私の通った小学校はとうの昔(30年以上前)に廃校になっていますが、建物は、その後手が加えられて、縫製工場になりました。この建物は当時も、そして現在も、私の住む地区では最大の建造物です。周りの風景も子供時代からほとんど変わっていません。

過日、東京に住む甥っ子が「コンビニも無いとこでも生きていられるんだね」と驚いていましたが、水と空気さえあれば、人間なんとか生きていけるものです。

工場の庭になっているところが小学校のグラウンドでした。

この写真を見て思い出したことがあります。
当時の校門は植え込みの右側にあって、正面の植え込みの後ろ(白い屋根の見えるところ)にはフェンスがありました。フェンスにはちょうど人が通れるくらいの穴があり、この穴を使えばちょっとだけ近道ができます。穴は、直吾(なおえ)と言う名の学年一の乱暴者専用の穴でした。日頃から穴の所有権を主張していて(実際、その穴は彼が毎日少しづつコツコツと広げて作った労作でした。)彼の暴力による報復を恐れてこの穴を利用する者は私を含めて誰もいませんでした。ところが前日に巡回映画(数カ月に一回体育館で上映会がありました。)で「力道山物語」を観たある日のこと、校門まで回るのが面倒になった私は直吾の報復も恐れず、その穴を利用して家に帰ろうとしましたが、ヤツは穴をくぐり抜けた私を呼び止めて執拗に文句を言い始めました。しかし、「力道山物語」を観て高揚感の残っている私はヤツのハイテンションの抗議(二人の間にはフェンスがあったので暴力はなかった。)を受けてたちました。


ヤツ「オイ、コラッ!その穴勝手に通ってはいけねーんだぞ。その穴、誰の穴だと思っているんだ。」

ume「学校の穴だろ」

ヤツ「いや、違うね。フェンスは学校のものだけど、穴は俺のものだ」云われてみれば確かにそのとおりです。

ume「うん、わかった。だけどお前のものなら、こんなとこへ置いておかないで早く家へ持って帰れよ」

ヤツ「バカ!、穴なんか持って帰れる訳ないだろう」

・・・・ここまでは 何となく憶えていますがその後どうなったかまでは憶えていません。取っ組み合いにはならなかったように思います。間もなくしてこの穴も、ヤツが家へ持って帰る前に補修されてしまいました。2年前に50年ぶりに直吾に逢いましたが名前が変わっていたので訊いたら「市役所へ届け出た名前とはぜんぜん違う名前をオヤジがオレに教えた」ので、今は戸籍上の名前を使っているとのことでした。かすかに記憶しているこのおやじさん、「さもありなん」と言う感じの人だったので笑ってしまいました。

さて、どうして今日は昔話になったのでしょうか?そうだ、駅の上にある学校の写真を撮ったからでした。もうそろそろ昔のことを忘れてしまうトシになってしまったので、たまには、こんなふうに書き記して
おくのもいいでしょう。
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ume

Author:ume
新潟県上越市に住んでいます。午前中は農夫、午後からは勤め人。ときどき2,5号素焼き鉢のミニ盆栽もどきと戯れることもあり。

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